※1995年1月 ワシントン Fashion Centre at Pentagon City ここがアメリカSPAブランド研究の原点。
前回では、何故ワシントンを訪れたか?幾つかの側面から書きましたが、今回はその中でもアメリカSPAのモデルとして第一に視察した「ザ・リミテッド」について触れたいと思います。
「ザ・リミテッド」は、1963年にレスリー・H・ウェクスナー氏(26歳)が出身地のオハイオ州のサブアーバンSCに第一号店を出店したところを源とします。両親が婦人服店を営み、仕入れの難しさを聞いており、なんと,苦労して進んだロースクールを中退した後、両親の反対を押し切り、周囲からの借金で開店を実現したそうです。
この「ザ・リミテッド」という店名は、”いろいろ手掛けるから難しさが増す”、との見立てから、モデレートプライスのスポーツウェア(日本でいう普段着)に「制限した」ことに拠るそうで、この決断とその後の活動は、この店舗を全米で代表するチェーン店舗へ押し上げてゆく原動力となりました。
「普段着に制限した」これは、婦人服の店舗を運営するものにとっては、悩ましいところであったと推察します。なぜなら、
- 扱い品種を絞ることは、客層を制限することにならないか?
- 限られた品種で、お客様の購買機会も制限されるのではないか?
- 限られた品種で、どのようにレイアウト、ディスプレイしたらいいのか?
という疑問が生じるからです。卸型ブランド営業として、店舗の皆さんから多く寄せられる視点を受け止めていました。
そして、実際の「ザ・リミテッド」を目の前にして、
- 普段着をどう定義するのか?
- それでどう店舗を構成し、集客し、販売しているか?
当然のように筆者自身も考えながら、冒頭の写真の店舗へ入ったわけです。
第一印象では、「商品構成の解り易さ」が日本のそれとは違うなぁ!というものでした。日本に同様の考え方(「ザ・リミテッド」に学んだ?)の店舗群が各地のショッピングセンター内に多く有りました。しかし、「ザ・リミテッド」では、
- 今の重点商品が、ウィンドー、店内の複数個所で適切に打ち出しされていた。
- 単品×単品で、スタイル(組み合わせ)を複数見せていた。
- 同一品種内で、比較対象になる商品が近くに陳列されていた。
サイズ展開についても、個人の体形の振れ幅が大きい米国ゆえ、日本でいう3LLサイズまでが標準で売場にあり、この部分でもお客様の選択肢は確保されていました。
当時の視点ですので、ここ最近では「SPAでは当たり前じゃない?」と言われそうですが、1995年当時でこれを実現させている商品政策、店舗運営では多くの困難と試行錯誤があったようです。少し、過去の資料を見てみましょう。ここからの学びは第二印象に繋がりました。
1994年秋現在では、この「ザ・リミテッド」が苦境に陥っている、との報道が多く出ていたのです。その理由として
☆商品構成で旬なアイテムを欠き、飽きたお客様はディスカウントストアやカタログ通販をはじめとするホーム内ショッピングへ流れていった。
☆それでも同社は店舗の立地と上得意客に依存し、いつまでもお客様が来続けてくれものだと思い込んでいた
とあります。結果として94年の前半(第一、第二四半期)では10%近くの売上減、4%の利益減になったとのことです。
日本でも、80年代前半から成長したブランド、専門店では90年代に入って変調し始めていました。
・バブル崩壊
・商品構成や販売方法のマンネリ化
・在庫管理の大雑把さ、などなど。
結果として、店舗と倉庫を合わせると大量の在庫の山ができ、マークダウンの繰り返しでした。それでも売れていたので、また同じことの繰り返し!!! 販売の現場でも、過去に売れたデザインや素材に頼る部分が多く、お客様の周囲に起きている変化を見よう、とする視点は少なかったです。これは後に大きな反省ポイントになります。
ワシントンで初見の「ザ・リミテッド」は、SPA初心者の筆者にも”見える部分”では、確かにシステマチックですし、極めて、合理的でした。しかしながら、その背景となる”見えない部分”にある顧客政策、商品政策次第では、直ぐに問題山積になる現実、そして、それをどう乗り越えことができるか?第二印象として、それがどうなのか?頭の中の多くを占めてゆきました。
今回は「ザ・リミテッド」の第一、第二印象を書きましたが、この後に見た、同グループの若者向け業態「エクスプレス」でも学びが有りましたので、次回はそれを書きましょう。
*参考文献;
桜井千恵子著『リミテッド社はなぜ世界最大になれたか』 商業界1995
『繊維新聞』1994